荒谷翔大 オフィシャルインタビュー公開

荒谷翔大 オフィシャルインタビュー (INTERVIEW&TEXT:矢島由佳子)

「yonawoの『脱退』を決断した理由」

時系列で進めていきたいなと思うので、最初から直球な質問を投げてしまうんですけど……なぜyonawoを脱退したのか、という話から聞かせてもらえますか。
バンドでケンカをしたことは一切なくて。みんな優しいから本心は内に秘めてほぼ言わない、みたいな。それがいいところでもあり、積もってしまう要因になっていたのかなと自分は思います。人って、最初の段階ではそんなに気づかないし無視できちゃうんですよ。でも気づいた時には策を講じようとしても未来が見えない――そういうことって恋人とかでもあるかもしれないですよね。結成時から「こういうところを目指して頑張っていこう」と掲げていたバンドだったらまた違ったのかもしれないですけど、ゆるっとやるよさもあったから(yonawoは中高の友達と始めたバンドだった)。最初は「脱退」ではなく活動休止や解散を考えていたんですけど、話していく中で、そうしたい(バンドをやめたい)のは自分だけという感じだったので、「俺が抜けた方がいいよね」という流れになりました。

積み重なっていたものとは何か、それは一言で言えるものではないと思うんですけど、「yonawoとしてどこを目指すのか」に対する意識の差が、すれ違いの要因として大きかったということですか?
短い文章でまとめると、そういうことですね。音楽性というよりは、音楽に対する姿勢とか、その人にとっての人生における音楽の立ち位置とか、そういうことがどんどんズレていったのかなと思います。もちろん例外はあると思うんですけど、ワンマンなバンドの方が上手くいってるイメージがあって。感情的になった方がいい場面ってあるんだろうなと、今になって思いました。しっかりぶつかることから逃げて、楽な方へ行ってた自分がいたから。

それは「楽」というか、みんなへの優しさや理解からの行動でもあっただろうし。
こういうふうにやれる感じが好きだったというのもあります。ビジネスとかを考えずにやれたら最高だなと思ったけど、でも無理だったな、っていう。自分の中では、1stアルバムを出した時くらいから「このままじゃダメだ」と思って。それをメンバーに共有しつつ、でも詞曲を作るのは自分だから……もどかしさがありました。平たく言ったら「売れる」「数字が伸びない」みたいなことって、アレンジとかも要因としてはあるかもしれないけど、詞曲なんだろうなと思って。そういう意味で「このままじゃダメだ」と思ったけど、自分の中で正解がわからないし、打開策が生まれないし、メンバーに相談するけど「……でも」という感じで。それでも頑張りたいしなっていう。トライ&エラーで色々試してましたね。

どうにかしたいけどどうすればいいかわからないし、そもそも音楽における「正解」なんてないし。荒谷さんとしては、平たい言葉でいうと「もっと売れたい」というところの目線を他のメンバーよりも高く持っていて、そこの意識や行動にズレや葛藤を感じていた、というふうに言えますか?
そうですね。数字だけが大事なわけではないとわかっているんですけど、でもやっぱりそこがないと活動ができないし。どんな職業もそうだと思うんですけど。狙って作れる数字でもないけど、かと言ってガン無視できるわけではないということに、メジャーに入って気づいてしまったからこそ――メジャーでやる前から気づくべきだったんですけど――「何かするしかない」「でも何もできない」みたいな葛藤があって。でもメンバーは優しいから「いやそのままでいいよ」って言ってくれるんですよ。それが逆につらくて。「このままじゃいかんよね」って言ってくれるメンバーもいたんですけど。

「脱退」という言葉を使うと、世間からの見え方として、yonawoの音楽が止まる理由や責任を荒谷さん一人が背負う状況になるじゃないですか。それでも次に進みたい、という腹の括り方をしたのだろうなと思ってて。
実際、その通りだなと思うから。他のメンバーはやりたいって言ってたし、でも俺はやれないって思ったから。

バンドをやめてソロを始める決断をして、しかもまたメジャーと契約したということは、数字的な成果を出すことに対してもしっかりと向き合っていきたいという想いがあるということですよね。
そうですね。自分の人生にとって音楽とは何かを考えた時に――自分はバンドをやる前からずっと音楽が好きだったし曲を作りたいという衝動があったので、「バンド」より「音楽」が先にあったんですよね。自分の音楽を大事にしてくれる人と一緒にやりたくて、それが当時はバンドだった。でも言ってしまえば、自分が自分の曲に注ぐ熱量を超えるような、もしくは少なくとも同じような熱量を、持っていたのかもしれないですけど俺は感じられなかった、というのが正直なところだったんです。限られた時間の中で勝負したいし、それなら俺と同じ熱量でやってくれていると思える人とやりたいなと思ったので、この決断をしました。でもそうは言っても、すごく楽しかったです。だからこそ楽しい思い出のまま残したいと思ったところもありました。その方がもし今後集まりたいなとなった時に集まりやすいかなって。

その後、他のメンバーと会ったりはしてるんですか?
ベース(田中慧)とはこの前久々に飲んで、真面目な話もしました。ドラム(野元喬文)はyonawoの頃から絵やデザインをやっていて、自分のプロジェクトでもジャケットとかで参加してもらえないかなって話をしてますし、これまで(“涙”、“愛言葉”、“紫苑”)のジャケットの色の部分は自分で描いたんですけど、のもっちゃん(野元)から「これとこれを混ぜたらああいう質感になるよ」とか教えてもらいました。ギター(斉藤雄哉)とは先日地元の福岡で、お世話になった方のイベントで、雄哉が客席にいたから呼び込んで一緒に1曲やりました。

「ソロでやりたい音楽性とテーマ」

脱退の時に「ソロのミュージシャンとして表現したいことや、やりたいことが徐々に大きくなっていった」とコメントを発表されてましたが、ソロでやっていきたい音楽性とはどういうものでしょう。
yonawoの音楽も自分の中では好きなものだったし、インディ洋楽なものもやりたいけど、それはずっとやってきたものだから今はちょっとやり尽くした感があるかなと思ってて。自分の中にある、まだやったことのない、でもちゃんとルーツにあるものからのアプローチをしたいなと思ってます。歌謡曲やJ-POPに振り切ったものもやりたいですね。

ソロになってから発表された3曲はまさに「J-POP感」を感じたものでした。
そうですね、それを初めてトライしたという感じです。

改めて荒谷さんのルーツを探る意味でも、これまでJ-POPや歌謡曲にどのように触れてきたのかを聞かせてもらえますか。
小学生の頃から今でも聴くくらい、Mr.Childrenがめっちゃ好きで。ミスチルは曲を作る時に、まったく意識してなくても出ちゃうくらい好きです。1曲1曲に、というか1つの詞をとっても、メッセージ性があるじゃないですか。かつ、生活に密着していて、赤裸々で包み隠さない感じを、いつか自分もオリジナリティを持って出せたらなと思います。他でいうと、スピッツ、YUIさん、玉置浩二さん、安全地帯、井上陽水さんとかも好きです。あとお父さんがよく聴いていた尾崎豊さんはずっと、今でも聴いてますね。高校で椎名林檎さん、東京事変、ペトロールズとかを知って、そういったロックも好きになって、同時にUK/USのロックも聴いて、という感じでした。

ソロとして発表する曲を仕上げる時、どんな音像を目指しましたか。声も、一部重ねてたりするけど、基本1本で生っぽさが残ってて。全体的に「令和のバズレシピ」じゃなくて「おばあちゃん家で出てきたごはん」みたいなホッとする感じがあるというか(笑)。
(笑)。この前、ドラムののもっちゃんにまだ発表してない曲も含めて聴かせたら、「90年代後期、2000年代初頭らへんの雰囲気がある」みたいに言ってくれて。その感覚や意識はなかったんですよね。おばあちゃん家のごはんかどうかはわからないですけど(笑)、生まれたのが97年なので、染み付いてるものが出てるのかなとは思ったりしました。

荒谷さんとして、この3曲で一番大事にしたのはどういったところでしたか。
詞とメロディ。詞は、感覚的な言葉ではなくもう一歩踏み込んで、自分の中で腑に落ちるようなものにして、かつ、テーマを持たせました。今まではストレートな言葉にしていいのかどうかを迷っていたんですけど、そこは振り切って、もっと真っ直ぐな言葉を使って表現していいのかなと思って。自分が歌いたくなる曲にしたいと思ったから、歌っていて気持ちいい曲になってますね。ギターのリフとかも、アレンジャーと一緒に詰めながら歌いたくなるようにこだわりました。

yonawoの時もそれらは大事にしていた部分だと思うけど、より力を入れたということですよね。
うん、大事。そこをよりフォーカスしました。

3曲の中で、同じ言葉が使われていますし、全体的にも通底しているテーマ性を感じました。言葉にしてしまうと、別れ、涙、孤独とか。
それはネガティブな意味ではなくて。例外なくみんなそれぞれ独りだし。どう頑張っても、どう足掻いても、ずっと独りなんですよね。でも繋がりたいし。それをいいこととしても悪いこととしても捉えなくていい、ということがテーマでした。完全に繋がれない歯痒さはあるけど、でも受け入れてもいいんじゃない?っていう自分への慰めでもあります。孤独感、疎外感、喪失感、何かがない、みたいな瞬間って、多分俺だけじゃなくて、みんなあると思うんです。それを別に否定するわけじゃなく、受け入れられるような詞にしたいと思ってました。

それはyonawoを脱退したタイミングだからそういうテーマを歌った、ということではなく、荒谷さんの人生でずっと考えているものですよね。
もうそれはずっと思ってることです。誰でも生きていたら、誰かと別れた、誰かと出会ったとか、常にあるから。特定の何かがあったからというわけではないですね。

なぜそれが、荒谷さんにとって人生をかけて歌うテーマになっているのだと思いますか。
歌を通して繋がりたいって、ずっと思っていたんだと思います。最初は衝動的に「曲作りたいな」「歌うの楽しいな」みたいな感じだったけど、やっていく中で「なんで曲を作って歌っているのだろう」「なんでこんなに音楽をやりたいのだろう」って考えると、やっぱりどうしようもなく繋がりたくて、そこに生きる希望を感じているからで。ただ肉体的に繋がることもできるけど、歌だったら精神的に繋がれるというか、音で心に触れられる気がするんですよね。

人生の中で、どれだけ言葉を尽くしても理解し合えない気持ちになる場面はあるけど、音楽を通すと同じことを大事に思ってる仲間を見つけられる感覚があって、それが居心地のよさや救いになったりますよね。
繋がったと思ってくれたりもするし、自分も繋がれたって思うし。そもそも、曲を書き始めてからそういった疑問みたいものはありました。友達、恋人、家族とかと、マジで何もわかり合えてないんじゃないか、人ってわかり合える兆しもないんじゃないか、みたいに絶望したんですよ。ひとりぼっちでどうしようもないんやなって思ったけど、でもそれでしかないなって、一旦受け入れようと思ったのが19歳の頃。詞を書いて歌うことでもしかしたら繋がれるかもしれないと思えることが、僕にとっての生きる希望ですね。僕にとっての希望を絶やさない方法が、歌を続けることなんだと思います。

インタビューの前半では売れることへの意欲を語ってくれたけど、やっぱり荒谷さんは音楽のロマンみたいなものをとても大事にしている方だということは、この3曲を聴いても思っていたことでした。
ありがとうございます(笑)。

“涙”、“愛言葉”、“紫苑”について」

ソロを始めて最初にリリースした3曲について、1曲ずつ聞かせてください。1曲目の“涙”は、どういった描写を浮かび上がらせたくて書いた曲でしたか。
黄昏時。黄昏時って、語源が「誰そ彼時」で、人と人の境目がなくなっていく時間だと聞いたことがあって。さっき言ったような「一瞬だけでも人と繋がれる瞬間」という意味合いですごくいいなと思って。生きていて完全に交わることはないかもしれないけど、繋がる瞬間ってあるのかな、っていう曲です。僕は喜びがあったら、ちゃんと悲しみもそこにあってほしいんですよね。そのバランスがあるから、人って正気でいられるのかなと思うので。バランスを取ることが自分にとっては生きる希望というか。嬉しいことばかりあっても、それはそれでなんとなく不安定なんですよね。

嬉しいことばかりだと、嬉しさに気づけない自分になってしまうかもしれないし、人の痛みを想像できなくなるかもしれないし。
優しさがあれば、厳しさもあるし。別れがあれば、出会いもあるし。涙があれば、笑顔もあるし、もしかしたら笑顔だけど涙が流れてるかもしれないし。そこを否定したくないなと思います。それらが「ある」ことを認識したい。音楽を聴いてる時だけでも、どちらも認めてあげることができるような詞、音、メロディとかを作れたらなと思います。自分が作ったものが届いて、そういった瞬間を与えられていたら、生きていてよかったなと思えるくらい嬉しいです。

今話してくれたことは“愛言葉”にも通ずるものだと思うんですけど、この曲にはどんな想いがありましたか。
“愛言葉”では、《ねえ いいから笑って》って言ってるけど、正直笑わなくてもいい。普通に「笑ってほしい」ということでもあるけど、「いや別に笑わなくてもいいよね」ということも込めてます。明るいポップスでラブソングにも聴かせたいし、さっき言ったテーマも感じてもらえたら嬉しいんですけど、わりとダークな意味もありますね。……遺影って、微笑んでいるものが多いじゃないですか。笑ってなくてもいいし、苦しい時に笑う必要もないけど、死に際には笑ってくれたら嬉しいなって。ここでも《「みんなひとり。」》って言ってますけど、それは別に悲観することでもないって、自分も思えたらいいなと思います。

“紫苑”も、2曲に対して話してくれたことがテーマになってますよね。
これも、恋人とか自分の好きな人に向けた曲と捉えてもらってもいいですし、自分は生まれ変わりとかを信じるタイプなので、前世のこととかもあります。最初の《遥か今》というのは、本当は過去も未来もなくて、ただ「今」が連続していて、「遥か」と「今」というかけ離れたものをひとつの単語にすることで新たな時制を作ってみようとしたもので。そういう時制の感覚もあっていいのかなって自分は思うので。大切な人と今巡り合ってるかもしれないし、いつかまた巡り合うかもしれない。それが《遥か今》っていう時間の中で完結してる感じ。そうあってくれたらいいなと思うし、そうじゃないと救いがないよとも思うから。もしかしたらいつか会えるかもしれないって思えた方が希望を持てるから、僕はそっちを信じますね。

最後に、この先の展望について教えてもらえますか。
届けたいものはブラさずに、その中でどうマスに届けられる術があるのかを模索したいなと思います。俺にしかできない表現は譲りたくない、それが一番大事です。まずは秋にツアーがあって、それまでに「ライブに行きたいな」って思ってもらえるような材料もいくつか準備してます。ツアーのセットリストは、リリースしているソロの曲と、カバーもちょっとやろうかなと。バンドセットでやるんですけど、みんなが一番注目するのは自分の声だと思うので、全員に届く歌を目指したいですね。今日言った想いとかを受け取ってもらえたら嬉しいし、逆にみんなの想いも受け取れたらいいなと思います。正直、自分にとって歌とは、「伝える」というより「受け止める」の方が近くて。「届ける」ばかり言ったけど、空っぽな受け皿にみんなの想いを入れてるような気もするんですよね。みんなが思うことを、歌を通して感じられたらいいなと思います。そういう歌を歌えるようになりたい、というのが自分の長い展望です。

インタビュー映像 Part.1



インタビュー映像 Part.2


インタビュー映像 Part.3

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